変な大人に会いに行け

質問ガチ勢です

一般人に複数恋愛に関する悩み相談をすると陳腐な回答が返ってくるのか検証してみた

たそ: 質問ガチ勢,悩んだときは変な大人に会いに行けがポリシー。心理学・医学専攻の大学もう12年目になる。

 

恩を血で洗う

以前,複数恋愛に関して,悩み相談のプロに質問しようとしたら,二言喋ったところで打ち切られた話を記事に書いた。今思い出しても,実に見事な鮮やかさで斬られている。

tasogare0413.hatenablog.com

実は,このときの熱が冷めやらない内に,もうひとつ衝動的な行動を私はとっていた。相談のプロではなく,一般人に某悩み相談サイトで同じ内容を相談したら,相談のプロとどのくらい異なる回答が返ってくるのだろうか。なんとまあ意地の悪い企みである。助けを求める相談内容を投稿しておきながら (しかも,投稿者は既に相談のプロに回答を貰ってスッキリしている),それに応じてくれた人がいた場合,その回答の陳腐さを笑ってやろうと上から目線で待ち構えているという酷い思惑である。

別の側面としては,「多分一般的な世論,つまり私に対する否定的な意見が出てきて,また私は傷つくよなあ。自ら傷つきに行くよなあ。しかも,相談のプロに回答して頂いて回復している状態で,次は自分が大丈夫で居られるか試すために,わざとちょっと傷つきに行くわけだから,さながらインターネット・ファッション・リスカだなあ。」なんていうことも考えていた。そう易々とは情緒が安定してくれない。

地雷,投下

稀有なこのブログの読者の方の中には,私が以前の記事中で,相談のプロに最後まで相談文を述べていたら何を質問したかったのか気になる方も,もしかしたら居るのかもしれない (その相談文こそが陳腐であるから)。副次的に,今回の最低最悪な試みはその要望に応えることになる。

以下,私が某悩み相談サイトに投稿した文章の概要である。

人を好きでいることで迷惑をかけていると感じてしまい辛いです。
私は複数の人を並行に同等に好きになることができる,いわゆる複数恋愛者です。さらにバイセクシャルです。

私が困っていることは,私は,一度好きになった人に対する気持ちが薄れるということがあまりなく,人を想い続けることです。私が好きになった人たちは,今ではみんな自分の生活・家庭・産まれた子どもを優先しています。それに対し,私は,基本的には,みんな元気で生きていたらいいと願う反面で,みんな私より大事なものができて,私から関心をなくし,私を忘れていくのだと寂しくなります。

このような話を他者にすると,「複数の人を好きになる方が,先にその人たちを傷つけたのではないか」という意見を頂いたことがありショックを受けました。私が複数の人を好きになり,みんなをずっと好きなままでいることはみんなにとって迷惑なのだと思いました。

私についての率直な感想を教えてください。

以上である。実際はもっと長いし,冗長な情報が入っていたが,改めて校正するとこのような感じになった。

さて,この相談文に対し陳腐な回答は返ってくるのだろうか,そもそも果たして回答はひとつでもつくのだろうか。

意外に真面目な回答者の方々を拾い上げた

この相談文は,長い。長い上に情報量が多い。すっかり失念していたが,長文を文章整理しながら読解できる人間というのは,真面目な方が多いのである。つまり,先の相談文を見て,「浮気はダメだろ」と陳腐に一言だけ書き込むような人は,この長文に気力が削がれた可能性があった。後から思えば,そう考えざるを得ないほどに,真面目な回答者の方に数人回答して頂けたのである。

以下,感謝に基づき,頂いた回答を要約して抜粋する。

  • 何年も連絡を取っていなくても,いつまでも忘れない絆みたいなものはある
  • 好きでいるのは勝手,忘れるのも勝手。自分の中に留めておいた方が社会生活上ではスムーズ
  • 自分の中に想いを留めるなら迷惑ではない,結婚が絡まないならもっと迷惑ではない,そういう人がいてもいいと思う
  • 私も複数恋愛者です
  • ポリアモリーっていうのでしょうか,そのうちポリアモリーも理解される世の中になるといいですね

私の想定を裏切り,案外優しい回答が多かった。その内ひとりの方は,自分も同じ性的指向だと共感して下さり (この方は自分の恋愛生活パターンも教えて下さった),またひとりの方は,専門用語であるポリアモリーという言葉に自分で行き着いて下さった。後者の方とは,リプライでやりとりがしばらく続くのだが,「私の悩み = 100%ポリアモリーについての悩み」のような認識をされているような気がしたので,私は以下のような返信もしている。

この悩みには,性的マイノリティの要素はあるのですが,それだけではなく,私特有の悩みどころがあるような気がしています。
それを含めて,しんどくないところに落とし込めたらと思っています。

相談のプロが一瞬で私に対して抱いた先入観に基づいて,私が自分自身を説明するならば,①「私は,複数恋愛と博士論文とでエネルギーが枯渇しており,ネガティブなことを考えやすい状態に陥っている」のである。その中で,②「人を好きでいることが人にとって迷惑になっていると感じてしんどい」と思ってしまうのだから,何が辛いポイントかというと,「複数恋愛」ではなくて③「自分は迷惑をかけていると感じてしんどい」という箇所であることになる。それゆえに,相談のプロの回答は「寝なさい,体力づくりです」だったのだと私は理解している。

以下は,リプライでやりとりしていた回答者の方の最終的なコメントである (相談投稿の掲載期間には期限があった)。

人を好きになるのは悪い事ではない,そこまで思いつめなくても…

このコメントを拝見したとき,私は,「ああ,私の一番困っているポイントに辿り着いてもらえたなあ…」と感慨深くなった。この相談サイトでは最後に相談者の統括コメントを残すことができるようになっていたので,私は以下のようなコメントを残した。

丁寧な対話を有難うございました。
最終的に,相談文のなかで私が最も問いかけたかった「人を好きになることが迷惑だと思ってしまうことについてどう思うか」というところまで議論ができて嬉しかったです。
結論としては,「そこまで思いつめなくても」いいように,いつか楽になることをのんびり願うことにします。

のんびり願うというか,実際は寝るわけだが (最近では5,6時間は寝ている)。

社会と自分とをなんとか折り合いをつけようとしているという見解

私の知人のなかに,私の複数恋愛について,私の抱えるしんどさについて,鮮やかに言い表してくれた人がもうひとりいる。その人のことを仮称として,小説家Yと呼ぶ。小説家Y曰く,私は「社会から色んな声があがっているなかで全部をうまく取り込もうとしている」とのことで,「音楽的に言えば『ポリフォニー』的」だと言うのである。

ポリフォニー (polyphony) を,英辞郎の英和辞書で引いてみると,以下の説明がされている。

多声音楽。複数の異なる声部が、それぞれ異なるピッチとリズムを持つ旋律を奏でる音楽。旋律が一つしかないモノフォニー(monophony)や、主旋律と伴奏の和音から成る(旋律優位の)ホモフォニー(homophony)と区別される。

英辞郎

なんだか,言語学者ミハイル・バフチンを思い出す構造である。

ミハイル・バフチンは,「異質な他者と向き合う社会の難しさ」について,異質な他者本人と社会に相当する他者たちは,「その世界を認識するのは唯一の主体としての自己であり,他の誰にも共有することができない」と述べているらしい。「本人と他者が,全く同じ時空を認識することはありえないのだから,認識が一致することはありえない」,そういう意味で,「本人と他者は絶対にわかりあえない。そこから語り (ダイアローグ) は始まる」ということらしい。ちょっと,いろんなところからの孫引きなので,もう一度関連文献を読みたいところである。すみません。

小説家Yの話に戻ろう。小説家Yは,私が,社会のなかであがっている色んな声をうまく取り込んで自分と社会の折り合いをつけようとしているように見えると話した。また,「交際 (恋愛) に対して、社会通念的に迷惑/迷惑でないという基準で判断されることが多いのは興味深い」「そもそも人と人との関係性において迷惑をかけないとは何かと考えてしまう」とも述べた。その上で,「そのため,迷惑/迷惑でないという軸に許容できる/許容できないという軸を加えて4つに分類にすると、少し整理できるような気がする」と新たな意見を私に与えたのだった。

その意見による問題の再構成は私に多分に衝撃を与えた。小説家Yの詳細な説明を聞いて,私の直感的な印象による2×2のパターンの分類を以下に図示してみた。

迷惑と許容の二次元マトリックス1

2 (迷惑に感じる・感じない) ×2 (許容できる・できない) でパターンを分類すると,A (異質な他者本人・私) に対するB (社会に相当する他者) の態度はパターン①―④に分かれると考えた。あくまでもこの図は私の直感的な印象による分類だが,驚くことにパターン②のみでしか,Aの行動は問題行動でなくなる道は残らなかったのである。

つまり,A (異質な他者本人・私) の行動がB (社会に相当する他者) にとって問題になるパターンが多い。A (異質な他者本人・私) はB (社会に相当する他者)に対する距離感を誤るとトラブルになるリスクが高いといえる。事前情報から,B (社会に相当する他者)がどの態度をとるか予測することができれば,距離感を早急に選択することができ,トラブル回避に繋がる可能性がある… という,ロジックまで展開した。現実的にざっくり言うと,まあ,こういうパターンがありそうで,今対応している相手がどのパターンになりそうか審美眼を磨いてわかるようになると,お互い傷つかなくて済むよね… という落としどころである。是非その審美眼を磨きたい。

インターネットのなかでも五感を研ぎ澄ます

いきなりこんな図が私から送り付けられた小説家Yは私との距離感を改めようか迷ったかもしれないが,行動としては快く「良い刺激になった,たまげた」と仰られた。また,小説家Yの統括のひとつとして,以下のような再構成も述べていた。

「いずれにせよ,他者と関わるというのは肉体的にも精神的にも相手に干渉することが前提となるはず。(それにも関わらず,)『迷惑をかける』ことが問題の中心となるのは,自己を肥大しすぎて相手との関係性が透明化されてしまった状態なのではないか。」

私はこれについて,自分がやらかしてしまった・相手に負担をかけてしまった感が肥大化して,自分に対してばかり目がいく視野狭窄が起きており,自分に対して重きを置き過ぎて,相手に重きを置いていないのではないか,相手のことが最早見えていないのではないか,というようなことを指しているのだと認識した。

これに基づいて,そのようなことが起きている自分に何か変化を与えるのであれば,「肉体的にも精神的にも相手に干渉していることをもっと感じてみる」と,視野が広がり,感覚が広がり,ウエイトのバランスがとれて,相手のことが見えてくる,自分のしんどい感じが薄まる可能性があるのかなと今のところ思っている。

今回の発端である,一般人に複数恋愛の悩み相談をしてみるという試みは,社会に相当する他者のなかにも必ずしも陳腐で否定的なことを言ってくる人だけでは案外ないというか,けっこうみんな親切ということがわかり,それこそが,私にとって,「相手に干渉していることをもっと感じてみる」体験になったかもしれないなと思うところである。対話できる人との対話は大事である。

さて,当初,インターネット・ファッション・リスカとか抜かしていた今回の試みだったが,結果的に自分の痛みではなく,他者に対する感覚を研ぎ澄ますという体験が得られた。関わって下さった方々に感謝と,諸事情あり無断で発言を引用してしまった謝罪を五体投地で捧げたい。

まとめ

一般人に複数恋愛について悩み相談をすると陳腐な回答が返ってくるのか?

陳腐でもない。対話できる人と対話することはけっこういい体験になる。